ただただおいしい“江戸そば”を。街なかから移転した手打ちそば店


2019年、“インバウンド”の狂騒に揉まれる京都で、「手打ち蕎麦 更科よしき」の店主・奥野喜昭さんは頭を痛めていた。その理由は、当時富小路通六角にあった店の前を通る人が、外国人観光客ばかりになったことと無関係ではなかった。「これではやっていけない」。一縷の望みをかけ、店の移転を決意した。移転先に望む条件は「そば打ち台とそば釜が置けること」。それさえクリアできたら、どこでもそば屋はできる。自分の身一つあれば。

東京・麻布十番にある老舗そば店での修行は、体の感覚が全てだった。店の旦那や先輩から、そば打ちについて手取り足取り教えてもらった記憶はない。「レシピもない。もう精神論の世界ですよ」。“江戸そば”を打つ技術の真髄は、そば粉を少しでも細く、長くつなげることにある。自分の感覚だけを頼りに、見よう見まねで客に出せる“江戸そば”を打たなければならなかった。「“つながれ!”と念じるしかない。執念です」と奥野さんは修行時代を振り返る。

京都のそばと“江戸そば”は、何から何まで違う。東京でそば打ちの修行をした奥野さんは、地元の京都に帰ってきたものの、当初その違いに驚くことばかりだった。「東京と京都、どちらのそばが悪くてどちらが良いということはないんです。ただ、在り方そのものが全く違う」。当然、奥野さんの店の評判も賛否が真っ二つに割れた。しかし奥野さんが自分のそばを変えることはなかった。目の前の客に対して誠実に、自分のそばを出すこと。その甲斐あって、徐々に店のファンが増えていった。その最中のインバウンド。腕には自信があったが、不安な再出発になった。

しかし移転してすぐに奥野さんはある変化に気づいたという。「能書き関係なく、ただ“おいしい”と言って来てくださる方が増えました。以前にない手応えを感じています」。今は、コロナ禍の辛抱の先にある未来を心待ちにしている。

喉ごしとほのかな甘みが特徴の真っ白なそば「更科」


夫の喜昭さんのそばを妻の美由紀さんが客席まで運ぶ。京都では馴染みのない江戸そばやそば前など、美由紀さんのさり気ない心配りのおかげで初めてでも安心して楽しめる。店名にもある「更科」は“江戸そば御三家”のうちのひとつで、そばの実の芯の部分だけを使って打つ真っ白なそばのこと。なめらかな喉ごしとほのかな甘みが特徴。かき揚げさらしな1,670円。

釜でそばを茹でる様子。「分量も打ち方も茹で方も、体の感覚が全てなので数字や言葉で説明ができないんです」と奥野さん。

3人の子どもたちがまだ幼い頃、客席でアンケートをとった「好きな天ぷらランキング」グラフ。「ネット関係は苦手」ながら、インスタの更新も。